舟入本町商店街の歴史

舟入西本通会

昔、この一帯は『船入新開』と呼ばれ、舟入ではなく船入と記した。
本川に臨む辺りは水運の便が良く、藩の船蔵が置かれ、頻繁に船が出入りしていたことから
『船入』と言われる
ようになったらしい。

明治34年12月23日発行の「広島案内記」によれば、
広島に二つの遊郭あり、西遊郭と東遊郭という西遊郭は小網町と舟入村に跨り・・・

昭和31年に施行された売春防止法により、約65年間にわたる「花街」の歴史を閉じたとか・・・
全盛期には東の弥生町と共に相当賑わっていたらしい・・
舟入商店街は、住吉橋から江波線電車通りまで、及び電車通りから観音橋に至る延長が
250地域型商店街である。商店街の歴史は古く、市の東西を貫く幹線道路沿いに
発達した街で、昭和の初め頃には既に相当数の店があったらしく、バス、車馬、人々の
往来が頻繁で、周辺部ではかなり活気のある商店街であった
しかし、昭和15年に始まった戦時統制令で、店はあっても売るものがなく、さらに店主、
従業員など働ける男は全て戦場にかり出されるといった具合で、年とともに商売
どころではなくなった。
江波線の電車通りが開通したのが昭和18年であった。
昭和20年の初め頃から、空襲による被害を最小限に食い止めるため、特に道幅の狭い
通りの建物疎開が、市内中央部を中心に強行され、この街も通りの半分が取り壊されました。
戦争が終わり23年頃からバラックながらかなりの店が軒を並べていました。
商店街の西端にかかる観音橋、今でこそ老朽化し通行止めになっていますが、
当時は鷹野橋、グランド間、鷹野橋、己斐間などのバスが舟入商店街を通り、
この橋を通った。
舟入商店街に行けば一応の生活必需品は揃うという事で、観音、江波地区からも
来街者が多く、賑わった。

その後、新住吉橋、新観音橋、国道2号線が舟入商店街の直ぐ北側を貫通した。
商店街を走っていたバスは国道2号線に移り、観音橋は老朽化が進み、
平成14年に通行止めとなった。
車の減った舟入商店街は、静かになった分だけ
街の活気も当時から比べると無くなりました。

昭和25年の会創立当初から電車道を境に東西商店街に分かれています
でも大きな歳末大売出しや、東西商店街のレクリェーション等の行事は仲良く
一緒にしています。東西商店街で約100店舗です

21世紀大変厳しい商環境ですが役員・会員が一致団結して頑張っています
消費者から愛される活力のある商店街にしたいと思っています

現在、正式名称「舟入西本通会」通称名「舟入本町商店街」の会長として
又、広島市商店街連合会理事として微力ですが頑張っています

役員暦は案外古く昭和47年、会計からのスタートでした
昭和58年には商店街役員功労で広島商工会議所会頭表彰を受けています
広島市中区舟入本町商店街・・です
一部、市商連35年史{昭和59年3月30日発行}より抜粋